B明治天皇の大垣来訪

表紙へ          明治天皇の明治11年巡幸(北陸道・東海道)

B明治天皇の大垣行幸 更新:2020/11/13  

 チフス発生により行程は大幅に変更になり、明治天皇の大垣行幸は突然決まったのであった。予定の変

更が地元にもたらした影響は以下に記載の通り甚大であった。

 京都を出発、草津、高宮から大垣、岐阜へのルートに変更になったのであるが、草津、高宮(各滋賀県)

は北陸から京都のルートで当初からの予定で既に宿泊済、かつ帰路も宿泊となり、岐阜も当初から宿泊の

予定に入っていた。したがって、これらの地は事前の準備ができていると考えられ、実質大垣だけが急遽、

御宿泊に加わったものである。

 

〜〜〜 鈴木隆雄 氏 著(新 大垣を歩く P58〜  H30.6.30 大垣市文化財保護協会)から↓ 〜〜〜

                     - 略 -

 明治11年10月、明治天皇が大垣を行幸された。

 天皇の一行714名は東海道御巡幸のはじめに伊勢神宮に参拝する予定であったが、三重県下で流行

病が発生したため、急きょコースを変更し、滋賀県を経て美濃路へ入り同月22日に大垣で宿泊することに

なった。この通報が大垣にもたらされたのは19日、宿泊のわずか3日前のことであった。道路修繕や一行

の宿割り、揖斐川等への架橋など、短期間での受け容れ準備を強いられたことがうかがい知れる。

                     - 略 -

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 京都発は10月20日、大垣泊は10月22日夜であった。

 大垣宿泊については急遽決まったことであり、その準備は大変なものだったようだ。

  なお、翌23日の道筋である呂久川(揖斐川の一部)への架橋は、仮船橋とし突貫工事で行ない21日竣

工したばかりであった。

呂久の渡し:文久元年(1861年)幕末の公武合体政策により、徳川14代将軍・家茂に嫁すことになった

皇女和宮。和宮降嫁の行列は中山道を進み、呂久の渡しを御座船で越えた際、彼女は綺麗に紅葉した楓

を目にし おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ と詠みました。

 和宮は明治天皇の叔母にあたります。

 それから17年後の明治11年(1878年)に明治天皇は、呂久の仮船橋を渡ることになります。

 ※呂久の渡しが鷺田橋になるまで(よしもと新聞舗) 

        明治天皇と舟(船)橋及び呂久の渡し等について詳しく説明がされております。 

予定の変更内容

 10月19日に連絡を受け10月20日に下記の日程変更の文書により関係者に指示している。 

変更された順路及び日程  

出典:岐阜縣版 和本【原本 筆者所蔵】

 

日程 上段:昼(晝)  下段:夜

御輦の跡 御巡幸日割(11/5←10/21 10/20←10/2)

(変更された順路及び日程)

                               區戸長

御巡幸ニ付當縣へ 御臨幸御日限等過般相達置候儀モ有

之候處 御道筋御日割共御都合ニ付御改定相成來ル廿二

滋賀縣下近江國坂田郡長久寺村ヨリ不破郡今須村

御通輦安八郡大垣町御泊廿三日岐阜 御着廿四日同所

御駐輦廿五日岐阜 御發輦葉栗郡田代村迄夫ヨリ愛知縣

下ヘ 御巡幸被爲在候ニ付爲心得相達候條區村内夫々可

告知此旨相達候事

 明治十一年十月廿日   岐阜縣令 小崎利凖

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

高宮(現彦根市高宮町)で21日夜に宿泊、

翌22日長久寺村で昼食、今津村へ入り

22日夜大垣町に宿泊、翌23日岐阜へ出発、24日

岐阜滞在、25日田代村まで、それから愛知県下へ出発 

  ※長久寺村(現滋賀県米原市柏原の区画)

  ※今津村(現岐阜県不破郡関ケ原町今津の区画)

  ※田代でんだい(現岐阜県羽島郡笠松町田代の区画)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

変更された順路及び日程(岐阜縣関係分

予定月日

御泊 実際の月日等
京都 朝

大津 昼

10月20日 草津 現草津市 10月20日

草津 朝 現草津市

武佐 昼 現近江八幡市

10月21日

高宮 現彦根市

10月21日
高宮 朝 現彦根市

柏原 昼 現米原市

10月22日 大垣 現大垣市 10月22日
大垣 朝 現大垣市

岐阜 昼 現岐阜市
10月23日 岐阜 現岐阜市 10月23日
御駐輦 10月24日 岐阜 現岐阜市 10月24日
岐阜→葉栗郡田代村迄夫ヨリ愛知縣下ヘ 10月25日 田代(でんだい) 現笠松町 10月25日
愛知縣下

 

予定変更による影響

 巡幸が急遽、大垣を通るコースに変更になったことで、岐阜県の対応は大変な状況に追い込まれた。

 名古屋から岐阜へのコースは予定通りだが、関ヶ原→大垣→岐阜→名古屋のコースは準備されていなかったからだ。

予定変更による影響@ 横山 正 氏 著 大垣ポータルサイト西美濃から

http://www.nisimino.ne.jp/nisimino/turedure/back/13_back_msg.shtml

- 略 -

 明治天皇の大垣来訪は突然決まったことで、対応は大変だったようだ。

      −中略−      当初の予定では、8月30日東京を発って

前橋・高崎から越後に出、新発田から長岡・富山・金沢と下ってきて、大津か

ら桑名、それから岐阜と名古屋を訪れ東海道にという2ヶ月強の旅程が組ま

れていた。

 ところが三重県でチフスが発生、予定を変更して京都に回り、10月20日

京都発、関ヶ原経由で22日大垣泊という連絡が来る。

 県側は大垣から岐阜への途中に道幅4尺のところがあり馬車が無理

なので他の道をと京都に電信を送る。しかし道筋に変更なし、馬車が

駄目なところは板輿を使うとの返事。

 こうして岩倉具視、大隈重信、大山巌といったお歴々に前回の話に登場の

大警視川路利良も加わり、全体では大変な人数の一行が22日の午後5時

過ぎ、大垣町に到着する。

 軍装の天皇は和風の家でも畳の上に敷物を敷いて靴のまま上がる。

 机、椅子、ベッド持参であり、洋風の生活をしていることを人々に印象付け

るようになっていた。翌23日朝7時に出発した一行は岡田家(林村御召替

所)を借りて馬車から板輿への乗換えを行い、楽田村で呂久川を仮船橋

渡り、そこでまた馬車に乗換えたのである。ところで26歳の若き天皇は、

岡田家でも座敷に持参の敷物を敷いて靴のまま上がった筈である。その

あとあわただしい出発に取り紛れて敷物1枚が岡田家に残された。岡田家

はこれを次の岐阜の宿泊所に届けたが、その受取書が、ご下賜金5円の

水引がかかった包紙とともに、いまでも岡田家に大事に保存されている。

                 2010.12..20

予定変更による影響A 新井 宏 氏 著

  〜奈良朝民政史・度量衡史の権威者 沢田吾一氏について〜

http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/metrology/sawada.pdf

 - 略 -

 明治天皇が岐阜(大垣)に行幸することになったのは偶然であった。

 明治十一年八月、明治政府は大久保利通の暗殺事件(明治十一年五月)

はあったものの、        -中略-      北陸道と東海道 の巡幸を

予定通り実施する。将軍に替わる天皇を民衆に知らしめ、畏敬の念を与え、

親愛の情を抱かせるための重要な行事であった。

 悪天候になやませられながらの北陸道巡幸をやっと終え、久方ぶりに京

都に立ち戻った時に、三重県でチフスが発生したとの緊急連絡が入る。

 そのため、伊勢神宮参拝を経て東海道に向う予定は急遽変更され、岐阜

を経て名古屋に出ることになった。

 天皇を迎えるため各地ではこぞって管内の概況資料、徳行ある者の事蹟

調査、有名物産の閲覧資料など、周到に準備を行っていた。だから予定の

変更がもたらした影響は甚大であった。

 特に急遽(大垣の)行幸が決まった岐阜県の当局者がどれほどの負

担を感じたかは想像に難くない。

 その中で、岐阜中学校参観が選ばれ、沢田吾一が御前で実験すること

になった。   -中略-

 実験はマグネシウムの燃焼による発熱現象の観察のようであった。

 マグネシウムが激しく燃えて白い灰が明治天皇の服にまでふりかかった

と伝えている。周囲ははらはらしていたが、首尾は上々で、金一円を宮内

庁から下賜されている。 以下略


大垣本陣平面図  




大垣本陣正面(南面) 



県下の資料

 関ヶ原町史:滋賀県から岐阜県へ入った一行と出迎えの様子を、大垣まで次のように記録している。

 大垣市史:一行と出迎えの様子、及び受入準備の様子を次のように記録している。

 岐阜県史:各市町村史の基資料が多く記録されている。他に岐阜県御巡幸誌にもに詳しく記載されている。 

関ヶ原町史(通史編下巻 平成5年1月1日発行)P-359

士族の反乱と天皇行幸

  - 略 -   10月20日京都を発ち、別に勅使を南宮神社に派

遣され、天皇は10月22日滋賀県高宮を御出発、柏原で御昼食、

小崎県令の出迎えの中に御来県になった。そして今須・山中・藤下

・松尾・関ヶ原では各地の戸長・副戸長らが出迎え、宗徳寺で御小

憩になり、関ヶ原合戦図による説明を聞かれ、2時半寺をたって野上

・垂井を経て、同夜は大垣旧本陣を行在所とされた。 

御巡幸御行列図式(明治11年)岐阜県歴史資料館蔵 

 

大垣市史(通史編近現代 平成25年3月31日発行)P-49

明治天皇行幸

    - 略 -  馬車で美濃路を東下され、旧塩田橋より久瀬川・船町・俵町を経て、10月22日午後5時過ぎに大垣町に到着された。到着

に当り、市内商家は国旗を掲げてお迎えするとともに、副区長鈴木徹らが、宿舎となる竹島町の飯沼武右衛門邸門前に整列して出迎えた。

 当時の飯沼邸は旧本陣で、嘉永3年(1850)改築されたものである。

 建物は間口約31m・奥行約38m、畳数は166畳で、ほかに勝手が43畳半あった。

 建物は往還に沿って南面し、大庇がある表玄関と勝手土間を中央に、表の間と勝手構えが左右にあった。表門は右構えで、その正面に

敷台・玄関を備えた奥座敷が作られていた。最上位の座敷は床・棚および付書院を構えた8畳上段の間で、奥院に面していた。

 翌23日早朝、本町・岐阜町を経て林町へ向かわれたが、当時の林本郷は道幅が狭く、馬車の通行が困難であったため、板輿に乗り

換えられた。その際、休憩所になったのが、岡田源兵衛宅であった。

 巡幸に先立ち、官吏が、滋賀県柏原から大垣までと大垣から呂久(ろく)・河渡(ごうど)を経由して岐阜西本願寺別院に至るまで

の現地調査を実施した。その中の大垣に関わる内容のいくつかを見ると、

 一 大垣駅入口久瀬川村ニ久瀬川土橋アリ、是レハ至テ小橋ニ候得共、二橋連続架渡候ニ付、御通ノ際御注意有之度

 一 大垣駅行在所飯沼武右衛門方、是レハ旧本陣ニ候得共、格別不潔ニ無之候

 一 (前略)果シテ大垣駅ヨリ呂久村手前大嶋村堤上(中山道本道ナリ)之間、道巾狭ク六尺ニ足ラサル処処々有之、且幅狭ノ小橋

  モ多少有之、御馬車ハ御用ヒ難相成候間、大垣ヨリ御板輿ニ被為召 (後略)                   (公文録)

と記されていた。

 これらを受けて県令は、飯沼武右衛門邸の家屋は修繕を加えず、畳表や障子の張替浴室の板の張替厠の落し箱・小便漏斗

下須箱の新調等を実施することを報告した。               - 中略 -

 また、手当として飯沼武右衛門には50円、非常御立退所となった開闡寺(かいせんじ:現在の大垣別院)に1円25銭、御用物置場と

なった細野隆太郎に1円50銭、岡田源兵衛に5円が渡された。 

※駅:宿場、馬継ぎ場のこと。ここでは鉄道の駅ではない。

  鉄道の大垣駅は明治17年(1884)5月開業で早い方だが、明治11年当時にはなかった。ちなみに名護屋駅(名古屋)は明治19年

(1886)5月開業。 

岐阜県史(資料編近代 平成10年3月31日発行)P-472

10月22日に宿泊後の諸経費清算文書

岐阜大垣行在所修繕及ビ呂久、河渡仮橋新築費等処分方ノ件

国立公文書館蔵

【御巡幸御用掛へ問合せ】

 一 大垣行在所飯沼武右衛門宅家屋之義ハ、別ニ修繕ヲ加

   ヘス、唯畳表替障子張替等之類耳、右ハ其儘宿主ヘ下

   渡可然哉

 一 御浴室板間ハ大破ニ付新規張替致シ候、右等家屋ニ附

   属セシ分ハ其後下渡可然哉

 一 御厠ハ在来ノ建物ヲ用ヒ、落シ箱小便漏斗下須箱等耳

   新調致シ候、右新調之分ハ入札払ニ可相計哉、又ハ其儘

   宿主ヘ下渡可然哉

 一 呂久、河渡両所仮橋新築入費之儀ハ、御馬車舎等同様

   入札払之上右代金差引不足相立候分ハ、御掛ヘ受取方

   申立可然哉

 一 右ニ付借入之品船等之類其損料耳取調御渡方申立候積リ

 

  右件々及御問合候条宜御指示有之度候也   

   明治十一年十月廿六日 岐阜県令 小崎利凖

  御巡幸御用掛 御中

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 【岐阜県へ回答案】

  別紙大垣行在所修繕向及呂久、河渡両所仮橋新築費等ノ

 儀ニ付、御問合ノ趣第一、第二、第三条ハ其儘宿主へ下

 付、第四、第五条ハ渾テ御申出ノ通御取計可有之、此旨

 及御答候

   明治十一年十月廿九日 御用掛

  岐阜県令 小崎利凖 殿

→要約文(WEB管理人による)

10月22日に宿泊後の諸経費清算文書

岐阜大垣行在所修繕及び呂久、河渡仮橋新築費等処分の件

国立公文書館蔵

【御巡幸御用掛へ問合せ】  

 1 大垣行在所 飯沼武右衛門宅家屋については、修繕してい

  ません。ただ、畳表を替えたり、障子の張り替えのみです。

   そのまま宿主へ下げ渡しますか。

 2 御浴室板間は壊れていたので新規張替をしました。上記

  家屋に附属する物として下げ渡しますか。

 3 御厠は在来の建物を使用、落シ箱小便漏斗下須箱等のみ

  新調しました。新調分は入札払いしますか。そのまま宿主へ

  下げ渡しますか。

 4 呂久、河渡両所の仮橋新築費用は、御馬車車庫同様入札

  払いの上代金不足が出たなら、御掛へ受取申立してもよろし

  いか。

 5 上記に関係して借入品船等の類は損料のみ調べ渡す積り

  です。

 以上の件、問合せについて御指示お願いします。   

  明治十一年十月廿六日 岐阜県令 小崎利凖

  御巡幸御用掛 御中

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 【岐阜県へ回答案】

  別紙大垣行在所修繕の事及び呂久、河渡両所仮橋新築費

等の件、第1、2、3条は、そのまま宿主へ下げ渡してください。

  第4、5条は全て御申し出の通り取り計らうべく回答します。

 

   明治十一年十月廿九日 御用掛

  岐阜県令 小崎利凖 殿

ふるさと 岐阜の物語(清 信重 氏 著書   福富教育文化財団1994.3.15発行)P-29〜  ---当時の岐阜市での状況をまとめたもの---

明治天皇、岐阜行幸

−略−

 今泉村西本願寺を行在所とし、随行の岩倉具視以下715名(そのうち344名は東京巡査)の宿泊を岐阜の寺や宿屋や民家に割り当てる。

(端詰町 小川汲三郎 12、常磐町 本島常次郎(酒醸造) 38、松屋町 渡辺甚吉 12、玉井屋 38、中鍛屋町 岡本太右衛門14 など)

   ※同巡幸での熊谷の御宿割(9月1日夜)記録合計794人、乗馬116頭の例を示す。

 寺や民家の多くは、そのための屋敷内の模様がえに多忙だった。行在所に当てられた西本願寺別院の模様替えはその最大のもので、

門徒の中には、その費用が彼らの上にかぶさってくるだろう、との不安があった。

−略−

 はじめ10月28日(※当初27日予定が1日延長して28日なのは、糸魚川で追加の御駐輦のため) 岐阜行幸、とあったが三重県で

「悪疫流行」とあって、急に予定変更、23日となって、受け入れ側の混乱に一層輪をかけることとなった。

 23日 天皇はフロックコート、2頭立の馬車で大垣から岐阜へ。24日 午前8時30分行在所から県庁へ。県庁正面には菊の御紋、紫の

幔幕をはりめぐらし、便殿には玉座が準備された。9時30分 県庁から師範・中学。校長、職員、生徒は門外で、県令は玄関で奉迎、

便殿で県令と校長の祝辞。のち師範と中学の教場を巡行、中学では史学・画学・英語・理科実験室(無機化学)の授業を見た。

 画学の授業は平瀬作五郎、理科実験は高須六郎の担任、弗化水素※フッ化水素蒸気でハリ板(ガラス板)に生徒 飯尾多三郎の祝辞を

あらわしたという。

−略−

 同書の中で、松井八澄(国学者で歌人)の記した内容も記載している。以下、同人の文書(原文は国語古文体)

 最初行宮を新設の伊奈波学校を予定したが、世間の目にあらわにすぎるので、西本願寺の別院とされた。日々、宗徒を集め、土石を運び、

竹木を集め、畳、板敷を改め、戸障子を新たにしなど、かぎりなく清らにする。これに費やす費用は本寺から出るが、いずれはその徒の膏血だ。

 はじめは27日(※当初の予定)と聞いていたが、三重県でコロリが起きたので急に24日と、4日ほど早くなって、行宮の仕事は夜を日につぐ事になった。

 23日 早くも御車は河戸(ごうど ※河渡・・・先に仮橋で記載)を越えられると伝え、あたりの人々は河戸に出て拝もうと、あるいは船で川を

下った。 わたしも河戸に出て拝むつもりだったが、雨が激しく降ったのでやめて、次の日に岐阜へ出る事とした。

 河戸では雨が降ったため、船橋を板輿でお渡りになり、みんなはお顔を拝むことができなかったという。

−略−

【WEB管理人の注】 ※フッ化水素:半導体の製造に欠かせない「フッ化水素」。政府が2019年韓国向けの輸出規制を強化した物質で、ほとんどの金属を溶かす。

 1878年に明治天皇の御前にて実験をしていたとは、驚きである。

表紙へ  【B明治天皇の大垣行幸】ご一読お疲れさまでした。