明治天皇の明治11年巡幸(北陸道・東海道)

-巡幸ルートとルート変更の詳細について-

yychan     更新:2020/11/26

表 紙       旧題:明治天皇の北陸東海両道巡幸と行在所跡(大垣本陣跡) 大垣行幸は突然決まった。

はじめに 

 明治政府は天皇が全国を歴訪する計画を立て、大巡幸としては3度目で今回は

北陸道東海道が対象であった。

 世は明治になってまもない頃、巡幸は将軍に替わる天皇を民衆に知らしめ、畏敬

の念を与え、親愛の情を抱かせるための重要な行事であった。

 明治11年(1878)5月14日に大久保利通の暗殺事件はあったものの、明治政府

は同年8月、北陸道と東海道の巡幸を予定通り実施した。 

 こうして、明治天皇を始め右大臣 岩倉具視、参議兼大藏卿 大隈重信、参議兼

  工部卿 井上 馨、陸軍少輔 大山巖、大警視 川路利良といった要職者も加わり、

全体では大変な人数の一行が出発したのである。


北陸 東海 御巡幸供奉官員録




@巡幸(予定の全ルート)

 明治11年8月30日東京を発って前橋・高崎から越後に出、新発田から長岡

・富山・金沢と下ってきて、京都・大津から津・山田・伊勢神宮・桑名、それから

名古屋と岐阜を訪れ東海道にという2ヶ月強の旅程が組まれていた。当初の

予定及び巡幸日程・行程(ルート)を関係資料を基にまとめて記載した。

 なお、当時は鉄道が敷設されているのはごく一部の地域であり、巡幸の移動

は殆んどが馬車列によるものであった。 (帰路 神奈川−新橋間は鉄道)

 

北陸 東海 御巡幸供奉官員録御宿泊記

A巡幸(実際の全ルート)

 悪天候や旧金沢藩士の不穏な動きの噂のため日程が1日遅れた北陸

道巡幸をやっと終え、久方ぶりに京都に立ち戻った時に、三重県で

チフスが発生したとの緊急連絡が入る。そのため伊勢神宮参拝を経て

東海道に向う予定は急遽変更し、京都から滋賀へ中山道経由で

岐阜(関ヶ原・大垣岐阜・加納・笠松)を経て愛知に出ることになった。

 以上から変更した内容は次のとおりとなった。

  @糸魚川での御駐輦(追加 警備上の問題)

  A京都から三重の行程を、京都から岐阜への行程に変更

    変更前:京都→滋賀→三重→愛知→岐阜→愛知

    変更後:⑴京都での御駐輦(追加 日程調整)

        ⑵京都→滋賀→岐阜→愛知

  Bその他  名古屋、岡崎での御駐輦(追加 日程調整)

 

変更した順路及び日程(滋賀縣→岐阜縣→愛知縣)

B明治天皇の大垣行幸

 チフスの発生により行程は大幅に変更になり、明治天皇の大垣行幸は

突然決まったのである。

 日程・行程(ルート)の予定変更が突然だったこともあり、地元に

もたらした影響は甚大であった。

 地元での受け入れ準備がてんやわんやだった様々な記録・・・・・

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 何と、明治11年(1878)の本巡幸時に岐阜にて明治天皇

の御前でフッ化水素の実験を行なった。

 ※フッ化水素:半導体の製造に欠かせない物質。日本政

 府が2019年韓国向けの輸出規制を強化した事で知られ

 る。 

大垣本陣模型

C明治天皇行在所跡(大垣本陣跡)

 明治天皇の行在所跡に上段の間が再現されている。

 

併設:

【ユネスコ登録関連1】

  大垣祭のときに使われる軕(やま)模型、からくり人形に関わる展示

【ユネスコ登録関連2】

  朝鮮通信使の宿泊の地

 

現在の行在所跡(本陣跡)





その他     岐阜県境の確定・・・岐阜県に関する二通の 内務卿布達を原本から別の角度で見ると・・・

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